読者のみなさまこんにちは、そしてはじめまして。
この度、「吹チャン!」の助っ人ライターの一人として採用されましたペンネーム「川ノ何某(かわのなにがし)」と申します。生まれは吹田、育ちも吹田、そして生家も先祖代々吹田です。
さて、自己紹介はそこそこにして、今回の本題と入りましょう。
さまざまな角度から吹田に関する発信する「吹チャン!」の中で、私が主に掲げるテーマはズバリ……
「吹田の歴史」です。
しかし、「歴史をテーマに」と一言で言ってもその範囲は極めて膨大です。
その中で私の一押しは、室町時代より吹田で一大勢力を誇り戦国の世を駆けた一族、吹田一族の居城「吹田城」。
なのでその記事を……と行きたいところなのですが、残念ながら吹田城の記録は極めて乏しいため、城郭はおろか、その場所すらはっきりとしていないのが実情です。
吹田城に関する新たな発見が今後出ることを願いつつ、私が今回発信する吹田の歴史は、
「川面町の歴史」です。
……カワメンチョウ?……ドコ?
「川面町地車のこと?」と思われる方もいらっしゃると思いますが、そうです、その川面町です。読み方は「かわづらちょう」、間違いやすいですが「かわずらちょう」ではありません。
ちなみに愛知県の川面町は「かわもてちょう」、岡山県の川面町は「かわもちょう」と読み、地域によって川面の読み方は変化します。
現在「吹田だんじり祭り」で集結する地車は川面町のほか、神境町・六地蔵町・都呂須町・西奥町・浜の堂町・金田町があります。西奥町地車が大阪・関西万博に参加したのは記憶に新しいですね。
【吹田のニュース+α】大阪・関西万博に吹田の西奥町地車が出展!
地車で使用されている「何々町」という呼称は、かつて吹田市で使用されていた古い町名です、と言い切りたいところですが、金田町は今も使用されています。要は吹田の伝統的な町名です。
この古い町名は地車以外にも自治体の名称や、一部の地元民の間などで今も現役で使用されています。
では、ここからが歴史の話です。
吹田市が成立するはるか前の時代、時は戦国武将・徳川家康が天下を制し江戸幕府を開いた江戸時代初期(慶長8年・1603年開幕)、当時の吹田は「摂津国太田郡吹田村(せっつのくに・おおたぐん・すいたむら)」と呼ばれていました。
吹田村の中には「侍内(後の神境)・六地蔵・宮の前・河面(後の川面)・トロス(後の都呂須)・堀(後の堀奥)・奥(後の西奥)・浜の堂・西の庄」と呼ばれる9つの集落(吹田村九大集落)があり、これらの集落をもって吹田村は成立していました。
後年の発展で集落の数は増えますが、川面の土地にはその頃から既に人が住んでいました。浜屋敷の表を走る道路「宮の前通り」や泉殿宮周辺の「西の庄町」も由来はこの集落名です。
実は今でこそ「川面」表記で定着していますが、以前は「河面」表記も多かったのです。
これは当時の世間に「読みが同じなら別の漢字を当ててもよい」という風潮があったためで、「川顔」と表記される場合もありました。
さらに吹田も「水田」と表記される場合があり、もうややこしいですね。
また、川面の略称は「川」と「川ノ」が主に使用されました。私のペンネーム「川ノ何某」の「川ノ」はそれが由来です。
今回はここまでです。ありがとうございます。なるべく簡潔にまとめたかったのですが、結局なかなかの文章量になりました。目が痛いですね。最後に「今回のポイント」を次に示します。
それでは、また次回お会いしましょう!
<「ちょい足し」吹チャン!>
今回の記事とあわせて、「歴史」つながりのこちらの記事も読んでみてください。
【《月イチ企画》吹田の文化に触れられる施設】浜屋敷(吹田歴史文化まちづくりセンター)@南高浜町
本日も読んでいただきありがとうございました!
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