【第7回 吹田の歴史】『きしべ』の漢字表記──吉志部、岸部、それとも岸辺?

「吹田の歴史」シリーズ、今回お届けするお話は「『きしべ』の漢字表記」です。
 
……岸部ジャナイノ?

最古のきしべ

冒頭の流れが前々回の記事と同じなので、そちらを読まれている方はすでに察していると思いますが……さっそくタイムスリップしましょう。
 
時は860年前の長寛2年(1165年)、学校の教科書で「悪役」扱いされることの多い平安時代の武将・平清盛が活躍している時代に書かれた文書に「吉志部」という表記があります。読みは「きしべ」です。
 
地元の方にはお馴染み「吉志部神社」と同じ書き方ですね。
 
 
今で言う岸部地域には、先述の長寛2年より数百年前の朝鮮半島の国家「新羅(シルラ)」からの渡来人である吉師(きし。吉士など異表記多数あり)とその部民(べみん。ここでは吉師に従属する民衆)が住んでいたといわれます(新羅は承平5年・935年に滅亡)。
 
 
吉師とは朝鮮半島で「首長・族長」を意味する言葉の日本側敬称であり、吉師の人が多く住む場所という意味で「吉師部の里」とも呼ばれました。
 
当時の日本より進んだ技術を多く持っていた吉師たちはさまざまな地域で活躍し、難波吉志・三宅吉志・飛鳥部吉志・日之部吉志など一族としての吉師も成立していきました。
 
 
そして、平安時代には吉師部の里がある地域を「吉志部村」と表記するようになりました。
 
「師」を「志」と表記すようになった理由は諸説ありますが、その中には「釈迦ヶ池に出る大蛇を吉師が退治して、人々はその偉大なる志を讃えた」という伝説があります。
 
 
釈迦ヶ池(しゃかがいけ)は、吉志部神社の北にある大きな溜め池です。法相宗の僧侶にして池造りの熟練者「行基」が手がけたとされ、かつては田畑を潤す水源として利用されました。
 
【平安時代『先徳図像』玄証作 東京国立博物館蔵】
 
先述の国家・新羅の滅亡から2年後、承平7年(937年)の古文書に記されている「嶋下郡内吉志庄田十七町余池三所」の「池三所」に釈迦ヶ池が含まれていると考えられます。
 
また、吹田市内に現存する最大かつ最古の溜め池ともいわれ、国際的大事件の舞台でもありますが、事件についてはまた別の機会で触れましょう。

五大吉志部

 
戦国武将・徳川家康が天下を制して江戸幕府を開き江戸時代に入った頃、吉志部村地域には吉志部を冠する5つの村がありました。
  • 吉志部村
  • 吉志部小路村
  • 吉志部七尾村
  • 吉志部東村
  • 吉志部南村
所属は摂津国太田郡(太田郡は後に島下郡へ改称)で、この5つの村を合わせて「吉志部五ヶ村」や「吉志部郷」などと呼ばれました。
 
【吉志部東村と刻まれた吉志部神社の石碑。天保3年(1832年)】
 
第1回の記事で解説した吹田村とは異なり、吉志部五ヶ村はそれぞれが独立した村でした(吹田村の場合は村域に点在する全集落が揃って一つの村)。
 
 
また、吉志部の成り立ちについて、紀州藩に属する伊勢国・松坂(現・三重県松坂市)出身の国学者・本居宣長が自署『古事記伝』で「吉志部は吉志一族の本貫地(発祥地)ではなかろうか」と記したことで、改めてその認識が世間に広がったとされます。

吉志部と岸部の共存

時代は進み明治22年(1889年)、吉志部五ヶ村は合併、新たに岸部村(島下郡岸部村、後に三島郡へ変更)が設置されました。
 
合併前の旧村名は榎阪村の時と同様、大字として継承されますが、旧吉志部村(岸部村大字吉志部)以外は吉志部を冠せず、それぞれ「岸部村大字小路岸部村大字七尾岸部村大字東岸部村大字南」になりました。
 
【岸部小路村と刻まれた吉志部神社の常夜燈。寛延3年(1750年)奉納】
 
新村名の「岸部」という表記は、吉志部の略称として以前より度々使われており、今回の合併で正式名称に格上げされた形になります。

岸部の消滅

 
昭和15年(1940年)、岸部村は吹田町、千里村、豊能郡豊津村と合併、吹田市の設置に伴い廃止されました。
 
旧岸部村と他村の大字は継承、「吹田市大字吉志部吹田市大字小路吹田市大字七尾吹田市大字東吹田市大字南」になり、岸部は地名から消滅しますが、吉志部の略称としては引き続き使用されたと考えられます。
 
なお、吹田の地名で初めて大字ができたのはこの時です。

岸辺の登場

第二次世界大戦の敗戦から2年後の昭和22年(1947年)、日本国有鉄道(国鉄。現在のJRグループ)は吹田東海道本線(JR京都線)の新駅「岸辺駅」を現在の場所で開業しました。
 
 
「きしべ」と聞く分には違和感もありませんが、漢字で見ると「なんで岸部じゃないの?」と思いますね。
 
岸辺になった経緯は諸説あり、今となっては真相も定かでありませんが、有名な説としては以下の3つがあります。
 
  • 吹田市助役(現在の副市長)であり旧吉志部東村の大庄屋・中西家当主、中西鉄蔵が命名した。
  • 岸部にすると「きしぶ」と読む乗客が多いだろうと考えられた。
  • 約7000年前の海面上昇「縄文海進」でこの辺りは海だったという歴史背景。
 
 
経緯はどうあれ、「岸辺」は3つ目の「きしべ」として地域に溶け込んでいきました。

吉志部の消滅と岸部の復活

昭和50年(1975年)、吹田市は旧吉志部五ヶ村の地域で行政区画変更と住居表示を開始し、翌昭和51年(1976年)までに五ヶ村由来の大字と字(大字内の区画)を廃止、新たに「岸部北岸部中岸部南」を設置しました。
 
 
これにより吉志部は地名から消滅し、岸部が復活します。
 
この決定を聞いた地元住民の一部は反発し、「伝統的な吉志部の地名を残して欲しい」という運動も起こしますが、結果的に覆りませんでした。
 

「議員さんと市役所が強引に変えてしまはったんよ。」──吹田しみん新聞 2007 Vol. 8(2007年10月)より地元住民の証言

吉志部に限らず、行政区画変更と住居表示で伝統的な地名が消滅し、地元住民がそれに反発するという事態は日本全国で見られました。
 
 
地名からは姿を消した吉志部ですが、地域を見守る「吉志部神社」、国指定文化財「吉志部瓦窯跡」、旧中西家住宅こと「吹田吉志部文人墨客迎賓館」、ソフトボールチーム「吉志部NEO」などでその名称は現在も受け継がれています。
 
 
読者のみなさまはどの「きしべ」表記が好みですか?

参考資料

  • 井上正雄『 大阪府全志 巻之三』昭和50年(1975年)
  • 亘節『吹田志稿』昭和51年(1976年)
  • 吹田市史編さん委員会『吹田市史 第一巻』平成2年(1990年)
  • 吹田市史編さん委員会『吹田市史 第二巻』昭和50年(1975年)
  • 吹田市史編さん委員会『吹田市史 第三巻』平成元年(1989年)
  • 吹田市労連『吹田しみん新聞 2007 Vol. 8(2007年10月)』平成19年(2007年)
  • 吹田市立博物館『博物館だより No.58 紫金山と釈迦ヶ池』平成26年(2014年)

参考ウェブサイト

<「ちょい足し」吹チャン!>

今回の記事とあわせて、「歴史」つながりのこちらの記事も読んでみてください。

【第6回 吹田の歴史】100年目を祝おう──江坂神社と明治百年祭

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