【第10回 吹田の歴史】奉公に行くなら吹田孫兵衛──吹田村随一の豪農・河面家の軌跡

奉公に行くなら吹田孫兵衛、振袖姿でかどをはく、上り下りの船をみて──江戸時代の吹田村民謡
「吹田の歴史」シリーズ、今回お届けするお話は「神境町の河面孫兵衛」です。
 
……カワヅラマゴベエッテダレ?

吹田村の庄屋さん

橋本家(旧神境町)、西尾家(旧都呂須町)、気比家(旧南町)、金子家(旧西奥町)、早田家(旧宮の前町)、田中家(旧田中町)、上野家(旧川面町)など旧吹田村地域には古くから続き、庄屋など重役に就いた名家(旧家)が数多くあり、現在も「庄屋の◯◯さん」と呼ばれる場合があります。
 
 
庄屋(しょうや)とは江戸時代における村役人の一つで、幕府役人のもとで村の行政を担当しました。現在でいうところの村長に相当します。
 
 
旧西尾家住宅こと吹田文化創造交流館は西尾家、浜屋敷こと吹田歴史文化まちづくりセンターは気比家の屋敷がもとで、両家より吹田市に寄贈され、現在の形になりました。
 
【関連記事はこちら】

神境の河面家

吹田村は江戸時代より3分割で統治(三方入組)されることとなり、将軍直轄家臣たる旗本・竹中家の領土(旗本竹中領)の庄屋は橋本源左衛門、旗本柘植領は太田長左衛門、そして残る領土(後の上皇所領たる仙洞御料、以降本文では仙洞御料で統一)は河面長兵衛がそれそれ任命されました。
 
 
ちなみに吹田の竹中家初代領主・竹中貞右衛門重定は、かの軍師・竹中半兵衛重治の従弟に当たります。
 
 
庄屋となった各人物は神境(現在の南高浜町)の住民で、当時の神境は吹田村の中心地でした。
 
河面長兵衛が属する河面(かわづら)家は神崎川の沿岸に大きな屋敷を構え、多くの土地や財産などを保有する豪農の家系で、平安時代の第56代天皇・清和天皇に連なる清和源氏の子孫であるとも伝わります。
 
また、後に「孫兵衛」という名前が代々襲名されていたことから、有識者の間では「孫兵衛さん」とも呼ばれます。
 
【大阪市東淀川区相川から見た上高浜橋付近対岸の南高浜町。写真の中央周辺対岸にかつて広大な河面家屋敷が存在】
 
享保12年(1727年)、仙洞御料庄屋に河面弥兵衛が就任、河面弥兵衛は延享3年(1746年)に都呂須の豪農・西尾家の西尾与右衛門と交代する形で退きますが、河面家は引き続き吹田村の行政に関わりを持ち、庄屋を補佐する年寄(としより)などを歴任しました。

大地主

江戸時代の財政基盤は前時代より引き続き「米」でした。現金を調達するには米を換金する必要がありましたので、米の収穫量は当時の日本経済を動かす言わば「動力源」、また今でいう税金は年貢という名で主に米で徴収されました。
 
【※イメージ写真】
 
その動力源を向上させるには新たな耕地が必要でした。また、人口増加による食料不足という観点からも、主食の米を含む農作物の増産は大きな課題でしたので、「新田開発」と呼ばれる開墾が行われました。
 
現在の南吹田に当たる旧上新田町と旧下新田町、そして糸田川沿いの金田町はその新田開発の一環で形成された集落が元で、金田こと金新田は慶安4年(1651年)、下新田は承応元年(1652年)、その後に上新田が形成されました。
 
【※イメージ写真】
 
河面家は吹田村の新田開発にも携わり、少なくとも延宝3年(1675年)に河面長兵衛が2回(2回目は共同開発)、享保12年(1727年)に河面孫兵衛が共同開発で1回、寛政5年(1793年)の新田開発も河面孫兵衛が関与しています。
 
元より土地を数多く所有する地主としても名を馳せていた河面家ですが、新田開発などを経てさらにその数を増やしていきました。

民謡で語り継がれる一幕

大地主の河面家は田畑を農民(小作人)に貸し出し、借り主の農民は使用料(小作料)として河面家に収穫量の一部を納めていました。
 
集まった使用料は安政4年(1857年)1月時点で石高にして約535石(約80t)に達したとされます。
 
ここでいう石高とはあらゆる農作物や海産物の年間生産量を「米の年間生産量」として計算したものです。一つの村における石高が平均500石(約75t)という時代ですので、河面家に納められる量がいかに膨大であるかかがわかります。
 
奉公に行くなら吹田孫兵衛、振袖姿でかどをはく、上り下りの船をみて──江戸時代の吹田村民謡
そして、記事冒頭の民謡は当時の河面家を表すものでもあります。
 
他村より規模が大きいとはいえ吹田村は農業主体の農村、そのような場所で裕福な商家や町娘が着るような服装で奉公できる(働ける)のは特異であったと思われます。
 
孫兵衛さんの屋敷は川沿いに広がる、それはもう大層な屋敷だった。──旧神境町の古老
 
奉公のお給金がとてもよかった。──旧川面町の古老
 
「上り下りの船」とは河面家屋敷前の神崎川で盛んに往来していた船、特に京都や大坂に物資と旅客を運ぶ船、対岸同士を結ぶ船(吹田の渡し)などを指します。
 
前者の船で幕府公認のものは過書船(かしょぶね)と呼ばれ、その営業権(過書株)を持つ人物の一人が河面孫兵衛でした。
 
(吹田村における過書株は幕末時点で河面家の他、藤本家・早田家・気比家が保有)

その後の河面家

激動の幕末を経た明治時代初期、吹田村で行政改革が行われる中、入出金管理者の一人として河面孫兵衛がいました。
 
【内本町3丁目(旧川面町)難思山弘誓寺の鐘楼。明治17年(1884年)河面孫兵衛寄付)】
 
河面家は引き続き大地主として活躍し、時には公務の要職に就いて吹田の行政を支えました。
 
【高浜神社の鳥居前にある常夜灯。享和元年(1801年)河面孫兵衛と木下伝右衛門(南町)が奉納】
 
現在、河面家の屋敷は神境町こと南高浜町から姿を消し、当時の面影は残っていませんが、孫兵衛さん他、河面家が吹田に残した歴史は有識者の間で現在も語り継がれ、記録に残されています。
 
 
読者のみなさまがお住まいの地域に元庄屋さんのお家はございますか?

参考資料

  • 亘節『吹田志稿』昭和51年(1976年)
  • 吹田市史編さん委員会『吹田市史 第二巻』昭和50年(1975年)
  • 吹田市史編さん委員会『吹田市史 第三巻』平成元年(1989年)

スペシャルサンクス

  • 古老のみなさま
 
<「ちょい足し」吹チャン!>
 
今回の記事とあわせて、「歴史」つながりのこちらの記事も読んでみてください。

【第9回 吹田の歴史】とある川面墓地のお地蔵さん──言い伝えに残るその来歴

本日も読んでいただきありがとうございました!

◆◆「吹チャン!」公式Instagramのフォローもお願いいたします◆◆

https://www.instagram.com/suichan11/

◆◆「吹チャン!」公式Twitterのフォローもお願いいたします◆◆

https://suichan.jp/otoku

吹チャン!を見て、
「この街、いいな」と思ったら。

吹⽥‧北摂で愛されて30年以上のアイワホームです。
吹チャン!で紹介したくなるような「街の魅⼒」とともに
地元のプロが厳選した最新の⼟地‧物件情報や
理想の暮らしを叶える⾒学会情報をいち早くお届けします。

運営:アイワホーム / 吹田市の土地情報センター

  • 昨日のアクセス数:27105
  • 今日のアクセス数:23420
  • これまでの合計 :29872014
pagetop