「吹田の歴史」シリーズ、今回お届けするお話は「吹田だんじり祭りで曳行される地車の旧町名」です。
……アレッテドコナノ?
地車が冠する町名
元々は泉殿宮と高浜神社の行事で、私の地域は泉殿宮の氏子圏だから、毎年夏に地車を曳いた。経路は自治会が決めて、同じ氏子圏の自治会が連携した。あの時代は子供も若い人も多くて活気が凄かったよ。地車を全部まとめて曳くようになったのは吹田まつりからだったはず。──旧吹田地域の古老
時代の流れと社会情勢の変化により「本来の祭礼」が廃れつつあった旧吹田村及び旧吹田町伝来の地車(だんじり)曳行は、吹田市が日本万国博覧会の会場として熱気に包まれている昭和45年(1975年)より始まったJR吹田駅周辺を会場とする「吹田まつり」で再び脚光を浴びました。
初回から参加していたのかは定かでありませんが、地車曳行は吹田まつりで継続されました。
日本万国博覧会が開催された昭和45(1970)年に旭通と錦通りに歩行者天国を設けてパレードを開催。特設舞台では日本万国博覧会のパビリオンからはインド館、キューバ館、コロンビア館、フィリピン館が出演し歌や踊りを披露しました。──吹田まつり50年のあゆみ『写真と映像でふりかえる吹田まつり』より『第1回』の項
【古老より提供:平成6年(1994年)「第25回吹田まつり」のうちわ。7月22日・30日・31日に分けて開催された】
しかし、その吹田まつりも令和元年(2019年)の第50回で終了、後継の「吹田フェスタ」は万博記念公園が会場となり「長距離運搬が困難」な地車は再び出番を失う危機に直面しました。
そこで誕生したのが地車を主人公とする「吹田だんじり祭」です。民間で行う関係上、行政が関与する「吹田まつり」のような自由が利かず様々な困難にも直面しましたが、令和4年(2022年)に記念すべき「第1回吹田だんじり祭」を開催しました。
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以降毎年回数を重ね、令和8年に5回目を迎えました。
【令和8年(2026年)第5回吹田だんじり祭のポスターに掲載される各地車】
吹田だんじり祭は夏の新たな風物詩として地域を盛り上げ、さらに自治会の一部では青年団の復活に繋がるなど、活性化にも貢献しています。
【地車小屋前で鳴り物の練習をする西奥町地車。祭りのシーズンに入ると各地で練習の音色が響き渡る】
ところで、吹田だんじり祭で曳行される7基の地車には「どの地域に属するか」を示す町名表示があります(◯◯◯地車の「◯◯◯」が町名)。
具体的には以下の通りです。
- 神境町地車
- 六地蔵地車
- 都呂須地車
- 西奥町地車
- 浜の堂地車
- 川面町地車
- 金田町地車
さて、読者のみなさまの中にはこう思われた方もいらっしゃると思います。
「金田町以外、地図に載っていない」
ちなみに地車は昭和20年(1945年)時点で15基ありましたが、その後の売却・寄贈・寄進で現在の7基になりました。
伝統的な地名
金田町を除く6基の地車が冠する町名、すなわち「神境町・六地蔵町・都呂須町・西奥町・浜の堂町・川面町」は昭和38年(1963年)の行政区画変更で消滅した古い町名です。そのため、現在の地図には載っていません。
【川面町自治会館。内本町3丁目が設置される前の自治会館周辺地域は川面町を称した】
行政上は消滅したものの、自治会の多くはその旧町名を現在まで受け継ぎ、その区域も行政区画変更前の境界を基準としています。
田中町自治会、堀奥町自治会、宮の前町自治会、南町自治会、上新田町自治会、下新田町自治会なども同様です。
【神境町表記が残る南高浜町の阪急バス「神境町」停留所】
そのため、現在の視点だと各自治会の境界が複雑に見えますね。この事例は吹田市に限らず全国各地で見られます。
【大正14年(1925年)小川琢治『市町村大字読方名彙 増補』より引用、該当箇所の拡大】
名称の由来は江戸時代以前に遡るものが多く、吹田村の歴史を知る上でも重要なものです。
また、現在においても旧町名を理解する地元住民の間ではそれが使用されています。
【大正14年(1925年)小川琢治著『市町村大字読方名彙 増補』より引用、該当箇所の拡大】
(何故か六地蔵町が載っていませんね……)
江戸時代、各集落は「吹田村の内トロス村」、もしくは「吹田村の内小名宮之前村」などととなえていたが、各村自身については地下ともいっていた。寛政年間には神境も町ととなえ、いずれも吹田村何町と称するに至った。──亘節『吹田志稿』
※寛政年間は1789年〜1801年
とはいえ、地図と住所から消滅して60年以上が経過し、住民の入れ替わりや世代交代が進んで日常生活で使うこともほとんどない(不便がない)現在、それらを知る(学ぶ)機会がなければ「わからない」ということも多くなりました。
今は外から来た人も多いし、世代も変わっとるから、そういうのはもう私らみたいな年寄りしか知らんやろうな。──地元住民の方
かくいう筆者もかつてはさっぱりわかりませんでした。
ということで長々とした前置きはこれぐらいにして、7基の地車が所属する旧町地域と簡単な歴史を見てみましょう。
【目次】
神境町(しんけいちょう)
- 旧町名:神境町(神ノ)
- 現在地:概ね南高浜町の北半分
- 氏子圏:高浜神社
- 自治会館住所:大阪府吹田市南高浜町24番23号
- 地車小屋住所:同上(高浜神社御旅所境内)
- ランドマーク:吹田の渡し跡
【写真をクリックすると拡大】
彫刻は牡丹に唐獅子が主体ですが、見送り部分に宇治川の先陣争いの佐々木高綱、梶原景季の武士像といった、新しい題材が用いられています。──神境町地車の解説板
【吹田の渡し跡住所:大阪府吹田市南高浜町12番8号】
京都に向かう亀岡街道と大坂へ向かう吹田街道が交差し、南東部で神崎川水系の安威川と面する神境町は陸運と水運の物資集散地として栄え、吹田村最大の集落を形成しました。
【吹田の渡し跡】
重要地点であったことから戦国時代は集落を守るため周囲を水堀と土塁で囲み、後に「神境環濠」と呼ばれる強固な要塞を構築しました。
【浄土真宗本願寺派寺院「恵日山 正福寺」(南高浜町)の境内には今は無き橋本邸から移された「天神境内」の石碑が現存】
また、江戸幕府と豊臣家が激突した慶長20年(1615年)「大坂夏の陣」の際、天満宮の神輿が戦火に巻き込まれることを恐れた大坂町民が神輿を船で持ち出し、神境町へ避難させるという出来事がありました。
「清太夫さま、えらいことでおます。戦がおこります。この神輿は、戦に拘わりがおません。町の衆が、お祭りの嬉しさに喜んで担ぐ神輿でおます。清太夫さまは平和な静かなお人柄。戦に拘わりがあろう筈がないとお頼みに参じました。頼んます。神輿を守ってくれなはれ。」──阪本一房『ききがき 大阪北摂 すいたの民話』より『天神屋敷』の項
対応した神境町の有力者・橋本清太夫(後に吹田村の旗本竹中領庄屋を務める橋本家の先祖)は大坂町人の懇願に応え、情勢が落ち着くまで神輿を自宅に保管、橋本邸が「天神屋敷」と呼ばれる所以となりました。
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六地蔵町(ろくじぞうちょう、ろくんど)
- 旧町名:六地蔵町(六ノ)
- 現在地:概ね高浜町の中央部(高浜神社の東部)、南高浜町の一部、亀岡街道沿い
- 氏子圏:高浜神社
- 自治会館住所:大阪府吹田市高浜町5番7号(高浜神社境内)
- 地車小屋住所:同上
- ランドマーク:六地蔵道標
【写真をクリックすると拡大】
柱には昇竜の彫刻を付け、三枚板には中国の物語を題材にした人物像、各所に牡丹・唐獅子・花鳥木草を配するなど、全体を装飾する傾向が見られます。──六地蔵地車の解説板
【六地蔵道標住所:大阪府吹田市南高浜町3番1号】
鎌倉幕府を倒した武将・足利尊氏が暦応元年/延元3年(1338年)に樹立し、約250年続いた室町幕府の時代、六地蔵町は高野山真言宗寺院「慧日山 常光円満寺(元町)」や曹洞宗寺院「牛頭山 護国寺(高浜町、廃寺)」を背景にして栄えたといわれます。
【六地蔵道標】
六地蔵町の中を走る亀岡街道は古来より薪や炭、農産物などを輸送する商人や旅人が往来し、通行人向けの商売を営む人も多数いました。北端は吹田村の入口として関所が置かれ、「北ノ口」と呼ばれました。
【高浜町の「北ノ口」】
明治10年代(1877年〜1886年)に入る頃には治安や通信の中心地となり、吹田村初の交番「茨木警察署吹田分署」や郵便局「吹田郵便取扱所」か設置され、明治40年(1907年)には電話交換所が設置されました。
都呂須町(とろすちょう)
- 旧町名:都呂須町(トノ)
- 現在地:概ね内本町2丁目の大部分、同1丁目と3丁目の一部
- 氏子圏:高浜神社
- 自治会館住所:大阪府吹田市内本町2丁目5番17号
- 地車小屋住所:同上
- ランドマーク:旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)
市内の地車の中では一番背が高く、幅が狭いため、台座の一部を削って車輪の間隔を広げ、重心の安定をはかる工夫がみられます。前面柱前には、童形の力士像を一対配置する他、見送り部をはじめとして牡丹に唐獅子の彫刻でうめつくされ、打出し技法による繊細な竜門の飾金具を用いるなど、豪華な手法が各所に見られます。──都呂須地車の解説板
【旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)住所:大阪府吹田市内本町2丁目15番11号】
内本町2丁目から元町にかけての一帯は「都呂須遺跡」と呼ばれ、弥生時代や古墳時代、鎌倉時代、江戸時代等の遺物や遺構が多数発掘されている地域です。神崎川に近いことから水運で重要な役割を果たしていました。
【旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)】
天正7年(1571年)の織田信長に対する謀反の末に滅亡した吹田氏の本拠地は都呂須町と言われ、応仁の乱の終結(文明9年、1477年)から数年後に記された古文書には「トロスノ吹田伊賀守時道 吹田之一族也」という一文が確認されています。
【光明寺(内本町2丁目)】
また、浄土真宗本願寺派寺院「法性山 光明寺」は文安3年(1446年)開基と伝わり、旧吹田村地域に現存する最古の浄土真宗寺院と言われています。
西奥町(にしおくちょう)
- 旧町名:西奥町(西奥ノ)
- 現在地:概ね内本町1丁目の北西部、元町の南部
- 氏子圏:高浜神社
- 自治会館住所:大阪府吹田市元町13番22号
- 地車小屋住所:大阪府吹田市高浜町5番7号(高浜神社境内)
- ランドマーク:佛光山 如来寺 吹田別院・金子家収蔵庫
地車の彫刻は、牡丹に唐獅子、竜など、他の地車と共通する題材が選ばれていますが、なかでも松竹梅や鶴亀、翁媼を配した三枚板の彫刻や、一木から堀り出した花頭口は圧巻で、当時の高い工芸技術を知ることができます。──西奥町地車の解説板
【佛光山 如来寺 吹田別院(金子家収蔵庫)住所:大阪府吹田市内本町1丁目18番8号】
高浜神社に隣接する真宗大谷派寺院「城南山 本眞寺 吹田院」の土地にはかつて曹洞宗寺院「牛頭山 護国寺」がありました。その北部には交通と防御を兼ねる堀があり、それに沿って形成された集落が起源とされます。
【佛光山 如来寺 吹田別院・金子家収蔵庫】
元々は一つの集落でしたが、豊臣秀吉が政権を握る安土桃山時代後期には護国寺に近い側の「堀奥」と、その西側の「西奥」に分かれていました。
【大阪府済生会吹田病院は平成10年(1998年)に現在地たる川園町へ移転するまで南高浜町の旧吹田町役場跡にあった】
済生会こと「社会福祉法人 恩賜財団済生会」が昭和16年(1941年)に創立30周年事業として吹田市に病院建設を計画した際、寄付金集めで奔走した一人、関西大学文学部教授・金田又兵衛氏は西奥町の庄屋・金子家の当主です。
【金子又兵衛・関西大学名誉教授(1901〜1987)】
金子教授は多くの研究熱心な学生や研究者を育て上げました。生涯の内4000日を調査に費やし多数の著作を残した民謡学者・宮本常一氏も金子教授を恩師と慕っていました。
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浜の堂町(はまのどうちょう、はまんど)
- 旧町名:浜の堂町(浜ノ)
- 現在地:概ね内本町1丁目の北部、元町の南西部
- 氏子圏:泉殿宮
- 自治会館住所:大阪府吹田市内本町1丁目3番1号
- 地車小屋住所:大阪府吹田市西の庄町10番1号(泉殿宮境内)
- ランドマーク:慧日山 常光円満寺
浜の堂地車は、正面の欄干部を手摺とせず「富士の巻狩」を題材に採る彫刻をはめ、脇障子は側柱を兼ねる仕様に造られ、東端の鬼板を獅子面とせず「濱」の字を彫り込む獅子口にするなど、市内の他の地車にはない斬新な意匠がみられます。──浜の堂地車の解説板
【慧日山 常光円満寺住所:大阪府吹田市元町28番13号】
高野山真言宗寺院にして足利将軍家(室町幕府)と吹田氏の菩提寺「慧日山 常光円満寺」の近くにはかつて浜辺があったことから「浜の堂」とも呼ばれ、その門前町として成立したのが浜の堂町と言われます。
【慧日山 常光円満寺】
西の庄町の南東端部から浜の堂町を抜けて高浜神社に至るまでの通りには昔「本町通り商店街」と呼ばれる商店街がありました。
【大正4年(1915年)創業の大枝印刷株式会社は元うどん屋・濱勝】
川面町(かわづらちょう)
- 旧町名:川面町(川ノ)
- 現在地:概ね内本町3丁目の南部(旧御国役堤の周辺)
- 氏子圏:泉殿宮
- 自治会館住所:大阪府吹田市内本町3丁目16番5号
- 地車小屋住所:大阪府吹田市西の庄町10番1号(泉殿宮境内)
- ランドマーク:泉殿宮川面御旅所・大の木明神社
この地車は、台座に彫刻を施すことや、中央通柱に加え後部通柱にも彫り物を入れる脇障子を構え二対とするなど、市内では例がない独自の意匠がみられます。また東端につく三面の鬼板のうち前屋根は獅子面としますが、後屋根を波涛と向き合う竜の彫り物としていて、市内では数少ない手法が用いられています。──川面町地車の解説板
【泉殿宮川面御旅所・大の木明神社住所:大阪府吹田市内本町3丁目17番8号】
鎌倉時代初期頃に貴族・西園寺家が造築し、室町時代以降の戦乱を経て跡形もなくなった壮麗な別荘「吹田殿」があったとされる(諸説あり)川面町は神崎川に隣接していることから水が豊かな地域です。
【泉殿宮川面御旅所・大の木明神社】
泪之池遊園の土地にかつて存在した溜め池には「源平合戦に敗れた平景清が叔父を誤解の末に斬殺、その刀を洗い涙を流した」という伝説があり、「血の池」とも呼ばれます。
【泪之池遊園の別名は「血の池公園」】
そして、筆者ルーツの地です。
金田町(かねでんちょう)
- 旧町名:金田町(金田ノ)
- 現在地:金田町の西部(糸田川沿い)
- 氏子圏:高浜神社
- 自治会館住所:大阪府吹田市金田町21番8号
- 地車小屋住所:大阪府吹田市金田町29番12号
- ランドマーク:金田公園
この地車は比較的小ぶりですが、東端につけた三面の鬼板のうち、前屋根では性別を示すかのように、正面は角を付けた厳しい顔つきの獅子面、背面は角のない穏やかな獅子面とし、後屋根ではこれらと全く異なって、谷間を昇る中国の人物像とする珍しい鬼板が用いられています。また、天井は格天井ではなく、竜を描いた鏡天井とするなど、独自の手法がみられます。──金田町地車の解説板
【金田公園住所:大阪府吹田市金田町26番】
西の庄町と共に旧町名の廃止を免れた金田町は江戸時代初期の慶安4年(1651年)に新田開発で新たに開拓された「金新田」を起源とします。川面町と同様、糸田川沿いに形成されたことから水源豊かな土地です。
【金田公園】
「金」という字には「価値があるもの、美しいもの」という意味も有することから「実り豊かで素晴らしい耕作地となるように」という願いを込めて金新田、金田と名付けられたかもしれません。
ちなみに、糸田川上流に位置する垂水村(現在の垂水町)とは悪水(農業排水や生活排水、滞留水の排水など)問題で寛政11年(1799年)に揉めたことがあります。
こぼれ話
行政区画変更や住居表示法(住居表示に関する法律)の施行で吹田市内の住所が大きく変わる過渡期の頃、郵便物が正常に届かないという事態が頻発したそうです。
【古老より提供:昭和29年(1954年)7月16日消印のはがき。住所表記に「吹田市川面町」とあり】
その当時吹田市役所に勤めていた方によると、配達する側が新住所に対応し切れず、市役所側も同様の状況だったため問い合わせ対応では混迷を極めたとのことです。
過渡期の頃は書かれている宛先住所も新旧混在していたでしょうから、その照合が極めて大変だったと思われます。
【川面町の場合】
- 旧住所:大阪府吹田市字川面町◯◯◯番地
- 新住所:大阪府吹田市内本町三丁目△△番□□号
【内本町3丁目の設置を示す土地台帳の記述】
読者のみなさまは地元の古い地名をご存知ですか?
参考資料
- 亘節『吹田志稿』昭和51年(1976年)
- 吹田市史編さん委員会『吹田市史 第一巻』平成2年(1990年)
- 吹田市史編さん委員会『吹田市史 第二巻』昭和50年(1975年)
- 阪本一房『ききがき 大阪北摂 すいたの民話』令和5年(2023年)
- 小川琢治『市町村大字読方名彙 増補』大正14年(1925年)
- 済生会『恩賜財団済生会七十年誌』昭和57年(1982年)
- 大阪法務局 北大阪支局管理『土地台帳』
- 吹田だんじり祭のポスター
- 地車小屋前の解説板
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