【第8回 吹田の歴史】三宅村を救った山田村の八丁池──吹田市にある茨木市の飛び地

吹田市の中に茨木市が存在する不思議な地域があるらしい……。
 
「吹田の歴史」シリーズ、今回お届けするお話は「茨木市の飛び地『八丁池』」です。
 
……吹田ノ話ジャナイノ?

飛び地とは?

ざっくり解説すると「ある市町村の中に違う市町村の地域がある状態」が飛び地です。海外で例えると「アメリカのアラスカ州がカナダを挟んだ先にある」ですね。こちらは国を跨いでの飛び地です。
 
飛び地ができる理由はさまざまで、例えば先述のアラスカ州は1867年(慶応3年)にアメリカがロシアより土地を購入したためです。
 
 
 
また、三重県と奈良県に囲まれ「全国唯一、飛び地の村」という言葉を掲げる和歌山県東牟婁郡北山村は明治4年(1871年)の廃藩置県で近隣の新宮町(現在の新宮市)が和歌山県に編入された際「新宮町が和歌山県になるなら、結びつきが深い当村も一緒に」という理由で北山村の前身集落が追随する形で編入、結果的に飛び地となりました。
 
さて、枚挙にいとまがない飛び地ですが、読者のみなさまは「吹田市に茨木市の飛び地がある」ことをご存知でしょうか?

茨木市から吹田市に入ろう

 
ここは茨木市にある大阪モノレール本線の宇野辺(うのべ)駅です。平成2年(1990年)に開業、当初は「茨木駅」でしたが平成9年(1997年)に今の名称に変更されました。
 
駅の南には元禄時代(1688年〜1704年)に成立した旧宇野辺村があり、明治22年(1889年)の合併で島下郡(のちに三島郡)三宅村大字宇野辺となって廃止されたものの、現在も町名として残っています。
 
 
宇野辺駅の西側に流れる新大正川を遡っていくと目的地に到着します。大阪府道2号を渡り、谷田橋から川沿いの道を進んでいきましょう。
 
 
道を進む前に左側を見ると吹田市が設置した「自転車・ミニバイク放置禁止区域」の看板があります。
 
 
すぐ横にある電信柱の街区表示板は茨木市です。
 
 
つまり、ここは吹田市と茨木市を隔てる市境です。この道に入った瞬間、私の現在地は茨木市から吹田市になります。
 
 
では市境を越境──たった今私は吹田市に入りました。電信柱にある「自転車飛び出し注意」は吹田市です。
 
 
電柱番号も吹田市、間違いなく私の現在地は吹田市ですね。では、どんどん進んでいきましょう。
 
 
観覧車が見えてきました。万博記念公園のEXPOCITYにある「OSAKA WHEEL」です。ここから先は真っ直ぐ通れないので、川沿い左の道からさらに進んでいきます。
 
 
開けた場所が見えてきました。左手には田畑がありますね。またまだ進みます。
 
 
ついに見えました。ここが吹田市内にある茨木市の飛び地です。

吹田市内にある茨木市

 
それではご紹介します。大阪府茨木市大字小坪井に所在する「八丁池(はっちょういけ。八町池とも)」です。
 
 
すぐ近くには吹田ジャンクションと中国吹田インターチェンジがあり、周囲は吹田市青葉丘北、青葉丘南、そして清水に囲まれています。
 
 
八丁池の南には西日本高速道路株式会社 関西支社の大阪高速道路事務所があります。住所は茨木市大字小坪井527番地の12です。
 
写真の左奥に見えるのは大阪府立吹田東高等学校の校舎で、こちらは吹田市青葉丘南16番1号です。
 
 
八丁池という名称を示すものは大阪高速道路事務所の入口にある案内板の左下に書かれているのみで、池の周辺にはありません。
 
 
また、八丁池の東、新大正川と千里丘あおば通りが交差する場所にある橋(昭和44年・1969年1月竣工)の名称は「八丁橋」といいます。
 
何とも不思議な場所ですね。何故このような飛び地が吹田市内にあるのでしょうか?
 
八丁池の歴史に触れてみましょう。

八丁池が吹田市でない理由

 
八丁池は元来「山田八ヵ村」に属する山田下村の池で、近隣の村が利用する重要な水源でした。
 
  • 山田八ヵ村とは?
山田上村・山田中村・山田下村・山田小川村・山田別所村・山田佐井寺村・上新田村・下新田村の総称。明治22年に上村・中村・下村・小川村・別所村が合併して山田村、上新田村と下新田村が合併して新田村、佐井寺村は片山村と合併して千里村がそれぞれ成立。
ある年、日照り続きによる水不足で窮地に陥っていた三宅村は、八丁池を所有する山田村に「八丁池の水利権が欲しい」という話を持ちかけました。
 
【※イメージ写真】
 
協議の結果、三宅村大字宇野辺にある大切な神輿と太鼓神輿をすべて山田村へ引き渡すことを条件に交渉が成立、八丁池の水利権は三宅村に移り、村は水不足の窮地から脱しました。
 
昭和32年(1957年)3月末、三宅村は昭和23年(1948年)に発足した茨木市に編入される形で廃止、八丁池の水利権は茨木市に移りました。
 
山田村は2年前の昭和30年(1955年)に吹田市へ編入・廃止されているため、この時に茨木市としての飛び地が誕生したことになります。
 
 
現在の八丁池は吹田市・茨木市・高槻市・摂津市・三島郡島本町を管轄する大阪府の土木事務所「茨木土木事務所」が管理をおこなっています。
 
(筆者「落書きが気になりますね……」)

土地開発と八丁池

今の姿は土地開発による埋め立てで縮小された姿であり、本来の八丁池は長さ215間(約390.9m)、横幅68間(約123.6m)、340畝(約3万3719平方m)あったといわれます。
 
 
JR吹田駅の近くにある地上38階建てのメロード吹田は高さ134mなので、八丁池の長さはメロード吹田約3個分ですね。
 
江戸時代の八丁池は、岸部の釈迦ヶ池と共に良好な狩猟場として、また景観がキレイな場所であったため、狩猟が禁止されたあとも憩いの場として人々に親しまれました。
 
 
吹田・茨木の両市民に親しまれてきた八丁池ですが、時代の流れと共に池を取り巻く環境は変わっていきます。
 
 
三宅村の茨木市編入から8ヶ月後の昭和32年11月、名神高速道路の着工説明会で「道路が八丁池の北部を通過する」という話があり、工事は昭和39年(1964年)に完了しました。
 
 
その時は大きく変わりませんでしたが、昭和45年(1970年)に控えた日本万国博覧会、及びインターチェンジの開通で周辺の土地開発は急速に進みました。
 
 
(4)八丁池改修
万国博会場の造成とともに、会場に隣接する溜池(八丁池)が会場からの余剰水を直接負担することになり、その老朽化が著しいため、堰堤の改修をはかり、災害防止につとめた。──大阪府『人類の進歩と調和 : 大阪開催のあゆみ』p.37 昭和45年
 
その結果、昭和40年(1965年)から43年(1968年)までの間に八丁池は南側を残して大きく埋め立てられ、およそ3分の1になりました。
 
そして、平成2年(1990年)時点でさらに南側が埋め立てられ、現在の形状に至ります。
 
 
なお、八丁池の境界そのものは埋め立て後も変更されていないため、飛び地の境界を通じて在し日の姿を見ることができます。
 
 
時代と共に二転三転した八丁池、読者のみなさまはお住まいの近くに溜め池はございますか?

参考資料

  • 吹田市史編さん委員会『吹田市史 第二巻』昭和50年(1975年)
  • 吹田市史編さん委員会『吹田市史 第三巻』平成元年(1989年)
  • 正宗敦夫『日本古典全集 五畿内志 下巻』昭和5年(1935年)
  • 大阪府『人類の進歩と調和 大阪開催のあゆみ』昭和45年(1970年)
  • 通商産業省『日本万国博覧会政府公式記録』昭和46年(1971年)
  • 吹田市議会史編さん委員協議会『吹田市議会五十年史 記述編』平成2年(1990年)

参考ウェブサイト

<「ちょい足し」吹チャン!>
 
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